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郷土の資料 ~鎌ケ谷の地名の由来~

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“鎌ケ谷”の由来

現在鎌ケ谷市は21㎢余りの面積ですが、当初の地名としての「かまがや」は、もっと狭い地域をさした地名でした。室町時代の記録では「蒲萱」と表記されたものが「鎌ケ谷」ではないかとも言われています。
もともとの「かまがや」がどの地域をさしたものかわからないため正確な由来はわかりませんが、語源としては①台地に挟まれた釜形の谷、②大量に水の湧くカマ(穴)のある谷、③蒲(カマ・ガマ)の群生している谷、④えぐったような崖のある谷 などが考えられています。

下の関連資料には市内の他の地名についても一部紹介されています。


関連資料

  • 『ふるさとの地名 船橋・鎌ケ谷の地名の由来を探る』 綿貫 啓一/著 (C1.291)
  • 『郷土史の風景』 綿貫 啓一/著 船橋よみうり新聞社 (C1.291)
  • 『角川日本地名大辞典 12 千葉県』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 (C0.291)
    など

郷土資料館情報

 鎌ケ谷市は明治22年(1889)に佐津間・粟野・初富・鎌ケ谷・道野辺・中沢・軽井沢新田の7ヶ村と串崎新田飛地が合併して鎌ケ谷村が誕生して以来、どの市町村とも合併せず、現在まで至っています。このため、この時合併した旧村名は、現在でも大字などとして使用されています。市域の「地名」についてその初出がいつであるのかなど、その歴史を今回はご紹介したいと思います。

現在、地名の中で一番遡って確認できるものは、文永(ぶんえい)9年(1272)に鎌倉幕府がだした書類で、そこには「薩間(佐津間)粟野」が「相馬左衛門尉胤村(そうまさえもんのじょうたねむら)」の領地であると記載されています。相馬氏は千葉氏のうちの一族で、市域北部を含めて、現在の我孫子市・柏市や茨木県取手市を中心とする相馬御厨(そうまのみくりや)を支配していました。しかし、執権(しっけん)として幕府の実権を握っていた北条氏の圧迫が強まると、元亨(げんこう)年間(1321~24)、相馬氏はわずかな一族のみを残して陸奥(むつ)国を本拠地とするようになり、南北朝の動乱のなか、佐津間・粟野両村との関係も無くなっていきました。

一方、南北朝時代のはじめより市域南部をはじめとする八幡庄(やわたのしょう)を支配していた千葉胤貞(たねさだ)が日蓮宗を信仰していた影響で、領地の村々にも日蓮宗が広まっていきました。延文(えんぶん)3年(1358)5月3日、日蓮宗弘法寺(ぐほうじ)がだした講の参加を呼び掛けた文書には「一、毎月十五日同十三日講会之事、(中略)道□(辺ヵ)中沢・屋中等僧俗之無怠慢可奉勤仕者也」とあり、中沢村・道野辺村の地名が記載されています。これが、中沢村などの地名が確認できる最古の資料です。

鎌ケ谷村は江戸時代、木下街道の宿場町として寛永(かんえい)6年(1629)に成立した村です。また、軽井沢も江戸時代に新しく成立した地域で当時は「軽井沢新田」と称されていました。この「新田」という呼称は近世の新田開発で成立した村々に付けられています。軽井沢新田も延宝(えんぽう)5年(1677)に成立した村です。

以上、これまでご紹介した村はいずれも中世~近世に成立した比較的古い村で、その名前の由来についてはわかっていません。

しかし初富村は明治2年(1869)に政府の開墾事業によって成立した新しい村なので、村名の由来が今に伝えられています。政府はこの年、江戸時代に幕府直轄の牧であった小金・佐倉牧を廃止し、この地の開墾事業に東京府(現・都)下の困窮民を従事させることにしました。初富の地はその開墾事業の初めに着手された土地だったので「初」という字と、不毛の土地が実り豊かなものとなるように祈りを込めて「富」という字を合わせ、「初富」と名付けられました。開墾事業は困難を極めましたが、入植者たちの粘り強い努力により、初富はその地名どおりの豊かな土地となりました。

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