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郷土の資料 ~木下街道の歴史~

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木下街道とは?

木下街道(きおろしかいどう)は市川、船橋、鎌ケ谷、白井、印西を通る道です。
鎌ケ谷では船橋から南鎌ヶ谷を通り、鎌ケ谷大仏をぬけて東鎌ケ谷から白井へと出る道になります。
現在でも大変交通量の多い道路です。

江戸から下利根川方面への最短路として江戸時代に整備され、行徳、八幡、鎌ヶ谷、白井、大森、木下の6か所に宿がおかれました。
人の行き来だけでなく、銚子方面から江戸日本橋の魚市場へと鮮魚を送る道としても重宝されました。


関連資料

  • 『木下街道展』
    市立市川歴史博物館、船橋氏郷土資料館、鎌ケ谷市郷土資料館、白井市郷土資料館/編集 鎌ケ谷市郷土資料館/発行 (C1.069)
  • 『歴史の道調査報告書集成:17』
    服部 英雄/編集委員 磯村 幸男/編集委員 伊藤 正義/編集委員 海路書院 (C0.682)

郷土資料館情報

現在、「木下街道」の通称で親しまれている市川・印西線は、江戸時代初期に行徳河岸(現市川市)と木下河岸(現印西市)を結ぶ脇往還として成立し、江戸と下利根方面をつなぐ最短路として多くの人々に利用されました。
貞享4年(1687)、松尾芭蕉は「鹿島紀行」の旅で木下街道を利用しました。
芭蕉は紀行文の中で「かまがいの原といふ所、ひろき野あり」「野の駒、ところえがほにむれありく」などと記し、“かまがい(鎌ケ谷)の原”の広大な原野で野馬が悠々とすごしている状態を描写しています。芭蕉がこの旅をしたのは中秋(陰暦8月)のことでした。
木下街道は芭蕉のほかにも、安藤定為『常陸帯』(元禄11年〈1698〉)、加藤千蔭『香取の日記』(寛政9年〈1797〉)、秋里籬島『木曽路名所図会』(文化12年〈1805〉)、渡辺崋山『四州真景図』(文政8年〈1825〉)、十返舎一九『金草鞋』(同10年〈1827〉)などの文人・墨客が紀行文や絵画などを残しています。

郷土資料館では、常設展示室にて「木下街道」のパネル展示を行っております。
興味のある方はぜひ、ご来館ください。

 

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